ともしびのうた

短歌/永遠と一瞬と欲望と星とバナナの話

受容と肯定、どこまでもゆける春 ~初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』を読む~

こんにちは。歌人の篠田葉子です。

短歌を始めてからたくさんの歌を読んできましたが、評を書くことをずっと怠ってきました。好きな歌集から好きな歌を引いて、評を書いていきたいと思います。一首評から始めて、後々しっかりした歌集評を書けるようになりたいです。よろしくお願いいたします。

今回は初谷むいさんの第一歌集『花は泡、そこにいたって会いたいよ』より。

 

電話中につめを切ってる 届くかな 届け わたしのつめを切る音

(春の愛してるスペシャル 1.春はあけぼの ゴミ袋、光をよく吸いよく笑う)

「花は泡」の表紙イラストを思わせる一首。電話の最中に爪を切るという状況からは、電話中に他のことをしていても受け入れられる(咎められない)、ありのままでいられる気楽な関係性にあることを感じるが、一方で主体は「届くかな 届け」と切実だ。

爪を切りたくて切るのではなく、きっと爪を切る音を届けたくて切っている。生きている以上爪は伸びてゆくもので、その音を届けるという行為は既存の愛の言葉にとらわれない意思疎通を目指しているように感じた。

 

同じ連作から好きな歌をもう一首。

カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか

(〃)

風でまるく膨らむカーテンから二次性徴を連想し、そこから「願えば春は永遠なのか」と気がつく。永遠なんてない(というのがわたしの持論だ)が、主体の気づきは歌の空間に、読者の心に、希望を膨らませる春の風となって吹いてくるように明るい。上の句と下の句の間に差し込まれる「あ」が、「願えば春は永遠」と気がついたことに臨場感を補っている。

解説では「あ」の部分について、「周囲にたっぷりと間合いを入れて読みたい」と書かれている。わたしは声に出してこの歌を読むとき、拍子の中でアウフタクトのように「あ」を差し込んでいた。風が吹き渡るだけの空間を拡張もし、気づきに臨場感を与えもする「あ」を使いこなせる力量を強く感じる。

 

どこが好き? 何か有っても無くっても撫でれば同じように鳴くから

(春の愛してるスペシャル 5.ろーるろーるろーる)

何かある場所を撫でても、そうでない場所を撫でても、作中主体は同じように受け入れて鳴く。作中主体のどこを好きでいても、同じように受容し肯定してくれるという深い愛を感じる。

また、「受容と肯定」という視点で、並べて鑑賞したい歌がある。

春を抱く どこに行ってもきみの踏む土は土だよだいじょうぶだよ

(Spring.OS)

これは離れていく「きみ」への歌だ。「きみ」がどこに行っても、その足元は、地盤は恐れるべきものではないと作中主体は証明してくれる。「土は土だよ」に続けて「だいじょうぶだよ」と畳み掛ける、その切実さは強固な証明であり、どうかそうであってくれという祈りのようでもある。

「どこが好き?」はここにいる「きみ」を、非常に近い距離から「きみ」を受容し肯定している歌、「春を抱く」はどれだけ遠くに行ってしまっても、その行き先が知れなくても「きみ」を受容し肯定してくれる歌になっている。

初谷むいの歌が心にあれば、わたしたちは今ここにいても、ここからどこへ行こうと無敵だ。そんな気がしてしまう。

 

月面のようなえくぼだ夜の駅好きって言ったら届くだろうか

(月の反射で見てた)

一読して、構成がすてきだ、と思った。月面のようなえくぼが見えている。えくぼが見える程度に近くにいる二人、という距離感があり、比喩として「月面」という単語が出てくる程度に相手に遠さを感じている作中主体、という距離感がある。

初句と二句で二人の描写をして、ここで意識はいっとき夜の駅に移る。一日を過ごして、これから各々の路線で帰宅する間際なのか、それとも電車を降りて各々の自宅を目指すのか。まだ明るい構内にいるのか、街灯の灯る出口付近にいるのか。どちらも想像できるこの三句目は、狭間だ。初句・二句と四句・結句とを繋いでいるパーツであり、絶妙な距離感の二人が存在している境界だ。

そして、繋ぎのパーツを挟んだ四句・結句において、作中主体は二人の境界を飛び越えようとしている。「好きって言ったら届くだろうか」。純粋で、切実で、今にも溢れ出しそうだ。けれど主体は、きっと今まで伝えたことは無かったし、今伝えたとしても「届くだろうか」という不安がある。関係性が変化する、変化しそうな一瞬の危うさや美しさが胸に迫る一首だ。

 

切実とは、対象への誠実さやひたむきさから立ちのぼる様子だと思っているし、初谷むいの歌の切実さは、深い需要と肯定からきているのだと思う。この歌集を読むたび、忘れていたいつかの記憶がどんどん引き出されて、それらがただ思い出すよりずっと鮮やかになっているのは、彼女の歌の力だ。どこを撫でてもどこに行っても、受け入れ、肯定して返してくれる。だからわたしは、わたしたちは、この歌集を携えてどこへでも行ける。